角幡唯介 は 氷瀑登攀を好む

『アイスクライミングの醍醐味は、探検のそれとかなり近い。どんな氷瀑や氷壁が待ちかまえているのか、その期待感が気分を高揚させる。』
と、氷登り山行が面白いと書いている。
角幡唯介 は、できることならまだ誰も行ったことが無いところを登りたいと思っているようだけれど、残念ながら、彼が生まれたころには、日本中の尾根も、谷も、岩壁も瀑布もすべて登り終わっているのでそれは叶わぬ夢になっている。

水平に流れる谷の水は真冬でも凍らないけれど、垂直に落ちる滝は凍り付く。
そんな氷の下は流水が流れ落ちている滝はもうとうの昔に登りつくされている。
ところが夏場、雨後にのみ滝がかかるという水量の少ないところにも真冬は氷の滝が現れる。
そういうところはもう 滝 と言うより 氷柱 だ。
そんなエクストリームな氷柱登りが一般化したのは比較的最近だ。
なので古い記録を探しても出てこない可能性も高く、そこに 未踏かも と興奮する気持ちはよくわかる。

雪山へ行く道具で重要なのが ピッケル。
片手で振り回すツルハシみたいな道具を一本持って行っていた。
このピッケルの形がどんどん変わって行って、今じゃ、カマキリの鎌そのものの形をしている。
それをカマキリよろしく両手に持って、そう2本持って氷柱を登っていく。
こんな形にピッケルが姿を変えてしまったのは、最近。10年ほどだろうか?
この形の変わったピッケルは、もう何十年も前に名前を「アックス」と呼ぶようになった。

大理石のように、カチンコチンでツルツルの氷柱に、両手にアックス、両足には爪先から鋭く飛び出した爪を更にヤスリで磨きあげたアイゼンを履いて垂直の氷を登っていく。
こういう氷登り、即ち、アイスクライミングに 角幡唯介 は面白さを感じているらしい。

『クライマーは、アックス振ることで氷の固さ、柔らかさ、粘土や強度を感じとり、その登攀の困難度を予測しながら、あるいは恐怖にすくみながら登る。つまりアックスを握ることで、人ははじめて氷壁と一体化できる。』
と言い、さらに
『つまりアックスのような良質な道具には、身体の一部となって、それがなかったときには知覚できなかった人間と地球との新たな接点を生み出すという、もう一つの世界創出の効果があるようにも思えてくるのだ。』
と、ベタ褒めだ。

この感触は私にもよくわかる。
私だって、4種類のピッケルを持っていて使い分けて雪の山に入っているし、
3種類の氷用のハンマーを持っている上に、
3種類のアイゼンを履き分けてもいる。
そして何十年のも前に八ヶ岳や奥秩父に氷を求めて入っていた。
でも、止めた。
今でも、雪の尾根を登り詰めて行って、氷結した岩場に出くわすことがある。
そんなところでは「エッ、氷かよ~っ」とより慎重になって登っていく。
別に、氷をこなす登山技術が無いわけではない。
ではなぜ氷瀑登攀を止めたか?
私は、上達しないのが分かっていたからだ。
何故上達しない?
それは、私は、腕力そして握力が非常に弱い。
この力が弱かったら、氷瀑登攀のみならず、ボルダリング、フリークライム、そして、昔の人口登攀は全く上達しない。
余談になるが、握力のある人は、ボルダリングやフリークライムをされると良い。
すぐに一定レベルまで上達する。間違いない。

氷瀑登攀。
両手のアックスの先っぽと両足のアイゼンのつま先だけが、僅かに氷に食い込んで登っていく。
角幡唯介 の言う『身体の一部となって、それがなかったときには知覚できなかった人間と地球との新たな接点』
この感触。実は、私はこれが嫌いだ。
自分の体で登っている、と言う感触に欠けるのだ。
昔で言う「人口登攀」みたいな感じなのだ。
人口登攀とは、自分の靴では登れないので3段ぐらいの縄梯子をかけ替えながら岩を登っていく。
そう、自分が登っているのは 梯子 であって 岩 ではない。
足場が無くって、縄梯子。やむを得ないと分かっているので、全面的にイヤなわけではない。
ただ、縄梯子を架け替え架け替え登っていく。
その感触はイヤなのだ。
氷瀑登攀もそれだ。
結局、道具に頼りすぎ、とか、道具次第、とかになってきてしまう気がするのだ。

ただ、エクストリームな氷柱登り。
余りの難度の高さにアドレナリンが出まくっている。
角幡唯介 が『その登攀の困難度を予測しながら、あるいは恐怖にすくみながら登る。』
この世界に 「生」 を感じ、次から次へと登りたがる気持ちはよくわかる。
でも、直接 「生」 を感じることはできない。
すぐそこに死を知覚するから 「生」 を感じられるのだ。

そんな危険なアイスクライミング、どうか、今後も無事に続けて欲しい。

 

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