現代の彫刻と縄文の土偶

ピカソのあのへちゃむくれの顔の絵が好きで時々美術館へ行く。

勿論ピカソ以外にも絵画を見るのは好きだし、無名に近い人の絵画の前でも「ウ~ン、上手いな~」と暫し眺め入っていることもしばしばある。

そう言った美術館の展示には彫刻もかなりある。

けれど、彫刻のほとんどは見ても何も感じない。

ようは、彫刻の良さが私にはわからない。

あの大阪万博で有名な岡本太郎の太陽の塔も、見ても全く何も感じない。

多分、彫刻は三次元だから、自分に理解できる隙がないのだろうと勝手に考えていた。

絵画は二次元だ。実世界からは一次元抜けている。

その抜けた一次元の中に、作者が訴えようとしたものを、私が正しく、或いは、完全に間違って感じ取る作業をしているのだろうと思うようになっていた。

三次元の彫刻は、抜けがないから、私が何かを想像したり感じたりする隙がない。

だから彫刻ではハートがシンクロしないのだろうと思っていた。

勿論、彫刻でも「う~ん、すごいな~」と感心して見入っているものもある。

ジャコメッティの彫刻は好きだし、「やぎ」は暫くその前から離れなかった記憶がある。

 

そしてフト気が付いたら、最近たまに行く遺跡館・博物館で見る縄文時代の土偶の前ではワクワクしている。

   (山の帰りに見た長野県茅野市尖石縄文考古館)

土偶を見ていると心が揺さぶられる。

ほのぼのと嬉しくなったりもする。

ものすごい力を感じる。

考えてみたら、土偶も彫刻だ。

三次元だ。

二次元の絵画と違って、隙間はない。

けれども土偶からは何かを強く感じる。

 

何も感じることが出来ない現代の彫刻と心嬉しくなる縄文の土偶、一体違いは何なのだろう?

 

 

 

 

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