残念、日本版コンティキ号失敗

ペルーからイースター島へ漂流の旅をしたコンティキ号を思い出させる漂流実験が、沖縄で行われたが残念ながら失敗に終わった。

2016年7月の17日に沖縄の与那国島を出て75Km(?)先の西表島を目指したが、残念ながら出航間もなくきつい潮流に流され、帆走船に潮流を計算した位置まで曳航してもらって18日に西表島に漂着した。

およそ3万年前に旧石器人がここを舟で渡ったのは間違いないが、現代人の知識ではそれを実証出来なかった。

逆に言えば、旧石器人の方がはるかに航海技術は進んでいたと言うことらしい。

ところでこの計画全体を指揮したのは海部さんだ。コンティキ号で言うヘイエルダールだ。

ヘイエルダールは自分でもコンティキに乗って指揮取っていたが、海部さんはどうも乗っていないみたいだ。

海部さんは、冒険家ではないんだ、と知って少々淋しい。

冒険家精神?魂?、が無ければこの手の実験は成功しないと思う。

残念だ。

 

3万年前は海流がもっと緩やかだったかも知れないし、逆に、もっともっときつかったかも知れない。いずれにしろそんなに海流があるのなら 帆 ではなく、舵 の技術があったのだと思う。

それから2万年たった縄文人は、伊豆半島と神津島を楽々往復していた。

縄文人も又、高度な海洋技術を持っていた。

こう言う世界に自らが飛び込まないとなかなか当時の実像は見えてこないと思う。

自らが飛び込まないで実験考古学は厳しいだろう。

こう言うのを見ていると、飛び込むのが先の 探検部 、まだまだ一杯活動領域がありそうだ。

 

 

海部陽介の新刊 「日本人はどこから来たのか?」 その3

旧石器時代から人はサルを食べていた。

海部氏ではない他の人の本で、

「サルは人間に近いから情が移って食べにくいからか、サルを食べない人達の遺跡の方が多い。

しかし、縄文人はサルを食べていた。しかも子ザルまでも食べていた。」

と言う内容の本を読んだ。

この感性には違和感があった。

サルが人間に近い?確かにそうだけれどそれはそのように学校で教わったからだろ、当時の人がサルをイノシシやウサギと「情が移る」様な意味合いで区別したのだろうか?それはないだろう、と思っていた。

また、縄文人はその動物を絶滅させないために、子供が捕れてもリリースした、と言うようなことが書かれていたがこれも信じられなかったので、縄文人は子ザルも食べていた、という内容に納得して、それ以上勘ぐることなく、且つ、違和感もなく読み進んだ記憶がある。

しかし、サルには情が移る、と言うような証明しようのないことに海部氏は全く感知せず、サルを食べると言うことは、樹上に逃げ込むサルを捕獲する術を当時に人は持っていた。すごいことだ、と書いている。

確かに、サルを食べたかどうかは、情が移るかどうかではなく、樹上のサルを捕獲する術を持っていたかどうかと言うことだ。

こういった視点が海部さんの説得力のある文に繋がっている。

逆に、感情論で行くから藤村の石器捏造事件を『学会』として起こしていくことになっていると思う。感情や欲望が先立つ大胆な仮説を立てて楽しんでいるのではなく、じっくりと科学の視線で追い続けて欲しいものだ。

猿を捕獲する術、で思い出したけれど、確か、縄文人の遺跡からは「空を飛ぶ鳥」を食べていた、という内容は読んだ記憶がないような・・・

樹上のサルまでは捕まえることが出来たかも知れないが、空飛ぶ鳥までもは捕獲出来なかった、と言うことだろうか?

 

追記 : 2016.03.09

縄文人は鳥を食べていた。

本を読んだ時には、縄文人が鳥を食べていた記憶は無かったがネットで調べたらしっかり食べていたようです。

群馬県桐生市、千網谷戸遺跡(チアミガイト遺跡)からは、キジ・ヤマドリが、

鹿児島県上野原縄文の森 黒川洞穴からは、キジ・ガン・カモ・ハト・ワシタカ目が食べられていたそうです。

他の遺跡は調べていません、でも普通にどの地域の縄文人も鳥を食べていたのでしょう。

 

 

海部陽介の新刊 「日本人はどこから来たのか?」 その2

今日も書籍「日本人はどこから来たのか?」を10ページ程読んだ。

やっぱり面白いのでついついページが先に進んでしまうが、あ~それでは勿体ないと本を閉じる。セーブしているのに3分の2ほど読んでしまっている。

この本の最初の方で「信頼出来る/有用な 初期ホモ・サピエンスの遺跡地図」として南北アメリカを除く世界地図が出ている。

これを見ると、なるほど人類はアフリカを出て東へ進んだんだと分かる。

やっぱり見たことのない世界へ行くのなら、陽の出る東へと向かうよな、と感じる。

勿論、現在はきな臭いシリアやイラクから西のヨーロッパへ向かった人々もいた。

クロマニョン人と言われる人々だ。

何故、西へ向かったんだ?

ふと思ったのが、クロマニョン人って有色人種のように模型とか作られているけれど、ひょっとして白人?と。

理由は、シリアやイラクあたりで突然白人が生まれた。当然周りの有色人種からは気持ち悪がられ、近くに来るな、付近から出て行けと迫害された。それも陽の出る東へ行ってはならん、暗闇に没する西へ行けと追放された人々だった、のでは?と。

アフリカからアジア、そしてオーストラリアやシベリアからアラスカ、さらに南米までたどり着いた人類はみんな有色人種だ。白人がそう簡単に出来るものではないことを示している。

けれどヨーロッパはみな白人だ。

ヨーロッパで白人になったのではない、白人としてヨーロッパに流れ着いたと見るのが自然だろう。

そうするとクロマニョン人は白人だったと言うことになる。

違うかな?

 

なんて、「信頼出来る/有用な 初期ホモ・サピエンスの遺跡地図」を見ながら想像した。

 

 

 

海部陽介の新刊 「日本人はどこから来たのか?」 その1

海部陽介の本、「日本人はどこから来たのか?」が出版されていると新聞の広告に出ていたので早速買った。

とても楽しみなので勿体なくって一気には読めない。

私が今、こんなに縄文時代に興味を持つようになったきっかけが「人類がたどってきた道」という海部陽介の本だった。

先史時代の話しとはなんの関係もない新書版に、海部陽介の「人類がたどってきた道」は面白いよ、と書いてあって、何故か惹かれて買ってみた。

元々、弥生や縄文、ましてや旧石器時代になんの感心もなかったのに、読み始めると、ワクワク、ドキドキ、そしてハラハラ、実に面白い。およそどんな推理小説もこれにはかなわないだろうと思う程の面白さだった。

要は、海部陽介のストーリー展開と文章が上手すぎるのだ。

これをきっかけに沢山の先史時代の本を読んだ。

でも、これはすごいと思うのには残念ながらほとんど出会わなかった。

イヤ、むしろ、文学部教授ならもう少しまともな日本語文を書けよ、と言いたくなる本の方が多かった。

それだけに海部さんの本はすごいと感じる。

ただどれほど文章が下手で読みづらくても、先史時代の人類が、6万年前に6万キロの旅に出る、これほどスケールのでかいロマンスは作り得ない。

神よりも古くお釈迦様よりずっとずっと昔に、人類はその旅に出た。

本当はただただ生きるためだけの苦労の移動であったとしても、それを広大なロマンスと感じてどの学者も筆をしたためてくれている。その心は伝わってくる。

そのロマンスの語りが海部陽介はとりわけ熱く上手い。

 

さあ2冊目の本、楽しみにして読ませてもらおう。

 

 

全部火葬にして良いのだろうか?

今日は、すごいタイトルですネ。

イヤ別に身内に不幸があったとかではない。単に、現代の日本人、死ねば99.9%が火葬されて何も残らない、というけどそれで良いのだろうか?というお話し。

日本の歴史は、縄文時代、弥生時代、古墳時代と始まる。その縄文人は、台湾・沖縄からやってきて日本に定着する。そこへ今から3000年程前に朝鮮半島から稲作文化を持った渡来人が来て弥生時代となり土着の縄文人を九州南部と東北から北海道へと追いやって、各地に王様が誕生してその墓として古墳が作られるようになった、と言うのが一般的な説だった。

でもこの話はどうも納得しがたい。

確かに、弥生文化が日本中に広まったのは確かだが、どう考えても、渡来人が日本中を席巻したとは思えない、日本中の縄文人が弥生文化を吸収したに過ぎないのでは?ということをここのブログでも書いた。(2年前の、2013年10月24日 「日本人は、縄文人か弥生人か」)

ちくま新書 「骨が語る日本人の歴史」 片山一道 著   2015年5月10日 初版発行

では、上記通説が間違っている。となっている。

この本に書かれている点は、

縄文人の南方起源説はちがう。縄文人は、旧石器時代に陸続きだった朝鮮半島から、樺太から、もしかしたら沖縄方面からも流れてきた。(この点は、旧石器時代の本を書かれている安蒜氏の日本海回廊と話しは一致する)

その後、海進が進んで大陸から切り離された日本で、1万年?2万年?掛けて旧石器人は縄文人となった。

そして、3000年程前に稲作と青銅器をもって朝鮮半島から渡来人が来て九州北部と島根の一部、そして少しは瀬戸内海で住み着いた。けれど近畿までも到達していない。この一部の渡来人集落を除けば日本は全部縄文人の生活地だった。

と言うものだ。

全く納得のいく説明だ。

 

結局これは、旧石器人、縄文人、弥生人、古墳時代の人、それらの人の骨を調べていって分かったことだ。

まあ、1万年前とか、数千年前に土葬された人が、今頃掘り出されて研究の対象にされるとは安らかな眠りもあったものじゃないと思う。

そしてこれらの人の骨が、従来の学説の間違いを証明してくれる貴重な資料だ。

ひるがえって今、私達は土葬されることなく火葬されて何も残らない。

これで良いのだろうか?

私達のことは、事細かに紙やコンピュータに記録されて残って居る。骨を残す必要なんか有りはしない。

確かにそうだ。

確かに、今は、今が時代の最先端である。けれど数十年、百年後にこの21世紀初頭をみたらこんなレベルの低い技術で宇宙にロケット飛ばしたり原子力発電所を動かしていたのか?怖ろしい。となるに決まっている。アムンゼンの南極やマロリーのエベレストへの挑戦の装備を今と較べたら自殺行為に見えてきてしまうのと同じように。

もうあと数年で人工知能が人間を越えていくだろう。

DNA解析や細胞分析など人工知能が得意そうな分野だ。

「生命」が解読される時、そしてそれが応用される時、「どうして平成の日本人は骨をみんな焼いてしまったんだ?!」とならないか?

今はゴミでしかないかも知れないが、とっても貴重な資料になるかも知れない・・・

 

そんなことはない、「どうして平成のゴミがこの時代にまで取ってあるんだ?」と苦情だけか(笑)

 

 

大英博物館 展へ行ってきた

上野公園にある東京都美術館でやっている「大英博物館展―100のモノが語る世界の歴史」を見てきた。

なんと本日シルバーデイとかで65歳以上の人は、入場料1000円のところが タダ。

ラッキー!!

で、がら空きでゆっくり見られるのかと思っていたら、なんと入場30分待ちだった。

何でこんなものが人気なの?といまだに不思議でならない。

大英帝国の名の下に世界各地から奪って持ち帰ったものの展示だろう、と思わなくもないが、今はアルカイダやISがこう言った遺跡を破壊する時代だから、世界人類に変わって英国がこれら世界遺産を管理保管してくれていると思うと有り難くもある。

今回の展示は、大英博物館が収蔵する700万点の中から 100点 を選び出して、古い順に世界の歴史を説明するもの。

そんな中に日本の 縄文土器 が展示されている。

それで行ってきた。

最初の展示物は、およそ200万年前と140万年前の石器。

これは現人類(ホモサピエンス)より古いネアンデルタール人なんかよりもず~と古い、原人とか猿人の石器だ。

200万年前の石器は、石が落ちて割れた自然石、といわれても分からない程度の石だった。

140万年前の鏃(ヤジリ)は、500mlペットボトルを一回り大きくしたサイズの極めて鋭利な刃物の見事な石器だった。さすがにアフリカ大陸の大型野獣をしとめる鏃だと思った。日本の旧石器時代の鏃よりあまりにデカイ。

その次は、一気に時代は進んで1万4千年前ぐらいの品が2~3点あって、いよいよ紀元前5000年とされた 縄文土器 が陳列されていた。

長野県の尖石遺跡博物館や井戸尻博物館と比較するとかなり質素な土器だった。

もっと見栄えのする縄文土器がイギリスに持ち帰られていたのかと思っていたので、少し安心するやらチョット淋しいやら、複雑な気持ちになった。

それ以降の展示には関心がないのかつまらないのか一瞥するだけ程度で抜けて出てきた。

とは言ってもものすごい人で早々簡単には歩かせてもらえない。

やっと出てきた上野公園はもう夏に日差しだった。

このまま帰るのは余りにもったいないと、国立博物館へ行った。

こちらも65歳以上は通年無料。有り難いですね。

日本館で旧石器と縄文時代をゆっくり見させてもらってお口直し。

地球館へ廻って、マンモスで作った小屋(家)の周りを見せてもらって帰ってきた。

こちらは中学生が修学旅行か何かで来ている感じ以外はほとんど人は居ない。

大英博物館展よりも遙かに中身は濃いと思うが、どんな博物館や美術館も常設展はこんなものだ。

昨日今日のニュースにアフリカで330万年前の石器が見つかったと賑やかに報道されている。でも、あと何十年経っても、そんな猿人の道具にまず意味づけは出来ないだろう。

 

博物館のイベントやニュースの話題は華やかかも知れないが、まるで人気のない 常設展 の方が遙かに知的好奇心をそそられる。

そんなことをこの歳になって初めて知るようになった。

 

 

縄文遺跡が未検証のままつぶされた

船橋市大穴南にある4000年前の遺跡「海老ヶ作えびがさく貝塚」が宅地開発で壊された、とネットの読売新聞に出ていた。

宅地開発業者が、発掘調査費を市が全額負担すれば記録保存調査の間は着工しないと通告していたが、千葉県船橋市市教委は、開発業者が負担することを国の通知が定めているのを理由に調査費負担を拒否したため、開発業者が期限が来たからと工事を着工して遺跡が潰されているという。

残念だ。情けない。

縄文土器や漆技術など、地球上の人類のもっとも先端的な文化を築いた縄文人、その遺跡を全く調査せずに破壊するなんて、どれほど無能な行為か、恥を知って欲しい。

開発業者は無論のこと、市教委も全く縄文文化の意味を理解していない無知で無能で未開人の集まりに過ぎない。

県や市の財産ではないんだぞ。

日本人には勿論、人類の大事な宝なんだ。

 

1万年以上も前から日本に住み着いた我々の祖先の偉大さを、もっと子供の頃から教えるべきだ。

でなければ、このような不幸は繰り返される。

 

 

現代の彫刻と縄文の土偶

ピカソのあのへちゃむくれの顔の絵が好きで時々美術館へ行く。

勿論ピカソ以外にも絵画を見るのは好きだし、無名に近い人の絵画の前でも「ウ~ン、上手いな~」と暫し眺め入っていることもしばしばある。

そう言った美術館の展示には彫刻もかなりある。

けれど、彫刻のほとんどは見ても何も感じない。

ようは、彫刻の良さが私にはわからない。

あの大阪万博で有名な岡本太郎の太陽の塔も、見ても全く何も感じない。

多分、彫刻は三次元だから、自分に理解できる隙がないのだろうと勝手に考えていた。

絵画は二次元だ。実世界からは一次元抜けている。

その抜けた一次元の中に、作者が訴えようとしたものを、私が正しく、或いは、完全に間違って感じ取る作業をしているのだろうと思うようになっていた。

三次元の彫刻は、抜けがないから、私が何かを想像したり感じたりする隙がない。

だから彫刻ではハートがシンクロしないのだろうと思っていた。

勿論、彫刻でも「う~ん、すごいな~」と感心して見入っているものもある。

ジャコメッティの彫刻は好きだし、「やぎ」は暫くその前から離れなかった記憶がある。

 

そしてフト気が付いたら、最近たまに行く遺跡館・博物館で見る縄文時代の土偶の前ではワクワクしている。

   (山の帰りに見た長野県茅野市尖石縄文考古館)

土偶を見ていると心が揺さぶられる。

ほのぼのと嬉しくなったりもする。

ものすごい力を感じる。

考えてみたら、土偶も彫刻だ。

三次元だ。

二次元の絵画と違って、隙間はない。

けれども土偶からは何かを強く感じる。

 

何も感じることが出来ない現代の彫刻と心嬉しくなる縄文の土偶、一体違いは何なのだろう?

 

 

 

 

下諏訪町立・諏訪湖博物館

諏訪湖の北東岸に町立の諏訪湖博物館がある。

そこには旧石器時代から縄文時代に黒曜石から作られた尖頭器や槍先などが展示されている。

黒曜石の原石は、諏訪湖から15kmほど北東の 星くそ峠 で採石されていたと言うことで、採石地に近い諏訪湖の博物館ならいろんな石器が展示されているだろうと期待して行ってみた。

残念ながら石器は博物館のホンの一角に展示されていただけだった。

石器は、町の大変な宝だと思うが、下諏訪町の宝は、石器ではなく、歌人・赤彦らしい。

建物も「諏訪湖博物館・赤彦記念館」という名前だし、赤彦の展示コーナーが半分占めている。

「赤彦」?はて、私の記憶には無いような・・・

『諏訪の生んだ日本の代表的歌人 島木赤彦』とパンフレットには書いてある。

写真も出ている。

でもその写真を見た私は、「あれっ、ダウンタウンのまっちゃん」と思ってしまった。

 

関東一円で縄文土器、何か不思議

(これは、単に私自身がなんか変だな~と思うだけで読んで頂いても価値はありません)

 

最初に日本に人がやってきた、3万年あまり前(と現在では通説になっている)、すなわち旧石器時代は狩猟の民だったようなので日本のどこに人が居ても別段不思議には思わない。

そう言う時代が2万年近く続いたあと、1万6000~1万3000年前ぐらいから始まって3000年ぐらい前までの縄文時代の遺跡、すなわち縄文土器が関東一円からも沢山出土している。

相模原台地からも多く出ているそうな。

そこでどうも腑に落ちないのが、相模原台地という砂埃の土地で、土器を作るいわゆる粘土があるのかしら?と言う点だ。

私は子供の頃大阪にいた。大阪では、どこを掘り返してもすぐに粘土質になった。

しかし、この相模原台地はどれほど深くほっても埃っぽい土でとても粘土質にはほど遠く土器の材料にはならないのでは?と不思議に思う。

そうすると、相模原台地で沢山出土する縄文土器の粘土はどこから持ってきたの?という疑問がわく。

いつかこの答えを見付けておくようにしよう。