本、 カラスはずる賢い

「獣害列島」の続きで「カラスはずる賢い」と言う 本 を読んだ。

実際の 本 のタイトルはもっと長い

「カラスはずる賢い、ハトは頭が悪い、サメは狂暴、イルカは温厚って 本当か?」 だ。

まあ一言で言えば、 動物の雑学 の本だ。

人が歩いていたら後頭部をカラスに嘴(くちばし)で突かれる、というのは、あれは違う、と言うようなところから始まって結構面白いし、山登りが好きな私には、猿との喧嘩の勝ち方などかなり役に立つ。

山登りで猿と喧嘩???と思われるかも知れないが、あの 上高地 周辺は猿の クソ だらけだ。なので、文字通り猿がクソ程居てる。渋谷駅前より混雑してる?と思われるほどの人混みの上高地周辺でさえもまるっきり人の居ないところを歩く機会の多い私は何かと猿と一触即発状態になりがちだ。なので猿との喧嘩の勝ち方、これは非常に有益な本だ (笑)

この本の筆者、文章も軽快なタッチで気軽に読めて面白い。

でも、最初の2~3割読んだところ辺りでもうイヤになってきた。

グアテマラの国鳥 とか ニューカレドニア・・・ と出てくると、いかに文章力があっても、過去に出逢ったこともなければ今後出逢うこともないそんな動物の特徴や特性などの話しにサラサラ興味は無い。

もう、この本、読み続けるのは止めようかと思う。

 

やっぱり、本を書くには、全体のストーリーや構成、起承転結。そして、各文の文章力が無いと駄目らしい。ウーン、「海部陽介」 の すごさ を改めて感じずにはいられない。

 

 

獣害 、 害獣

京都大学のOBで猟師をしている人が居る。 千松信也 だ。

猟の傍ら運転手のアルバイト(?)をし、色んな所で 講演 をしてるし、本も書いている。そんな本の一冊を読んだことがある。

猟師の世界なんかまったく知らないからかなり面白かった。

「くくり罠」という言葉もその本で覚えた。

猟師として生活しているので 猟 には慣れてきたけれど、殺す ことには慣れない、と言うようなことを言っていた。なんとなくわかる。

その彼が、「獣害」はあるけど、「害獣」は居ない。と言っていた。

この気持ちもなんとなくわかるけどしっくりこない、私には、本多勝一ふうに言えば、

「殺す側の論理」に聞こえた

 

最近読んだ 田中淳夫 の「獣害列島」では 「獣害」 も 「害獣」 もちゃんと使われている。こちらの方が 素直 に感じる。自らを美化したり免罪したりしない。

「獣害列島」では、獣が何故増えたか、をまず取り上げている。

1.獣が増えたのではない、人が、獣が住む世界へ進出した。

2.猟師が減って狩りをしなくなった。

等、世間でよく言われていることについて 田中淳夫 なりの考えを書いている。

その上で、

3.田中淳夫 の考える理由

を書いている。(この 田中淳夫 の考える理由を具体的に知りたい人は、本「獣害列島」 をお読みください。なるほどね、と感心しますから)

余談になるが・・・丹沢や奥多摩、関東山地など全山植林と思われる山域では、獣が増えた(?獣の被害が増えた)理由は色々あるのだろうけれど、私の様に、林業の手が入らないもっと山奥に50年前から入ってきた者の目には、猟師が減った、理由しか考えられない。以前は、何年かに一回ぐらいしか 熊 を見ることはなかったが、最近は毎年見る。しかも複数回。さらにすぐ近くで。

カモシカは山奥から里山側に降りてきているように感じる。

まあ、獣が増えた話は置いておいて

「獣害」 と 「害獣」に戻ると、

獣害 は、ケモノによる 害 と言う意味だし、

害獣 は、人に害を及ぼす 獣 と言う意味だ。

これが 人 だと

「老害」 という言葉があって、  『 他人に害を及ぼす老人を指す言葉だ。』と説明されている (   お笑い評論家・ラリー遠田 の  「とくダネ!」降板・小倉の弱音で見えた ネット上での老害批判を気にする時代に〈dot.〉   の記事 )

老害、 ふ~ん、行為や内容を指すのではなく、 人 を指す言葉なんだ。少なくとも若い人々には。

今年の年賀状に、我々老人は「存在自身が 害」と書いたけれど、やっぱりその通りなんだ。

大人しくして居よう。

ン? ブログも書かない方が良いのかな?

 

 

図書館、気を付けてね

本は買わずに図書館から借りることを薦めるブログを今までいっぱい書いてきた。

今もその気は変わらないし、購入せずにまず借りることをお勧めする。

何てったて買わないのだから安くつく。

読み終わったら、?、読み切れずに貸し出し期限が来ても本は返さなければならない。自宅に書架など要らない。

この2つのメリットは大きいのに、更に、嬉しいのは、腹帯や概要では面白そうと読みだしてみてもつまらない本も多い。そういう本にお金も場所も使わなくて済むのはなおありがたい。

と言うことで、図書館の本を借りて読むことをお勧めしていた。

ただ一点、注意が必要だ。それも極めて重大な注意点だ。

それは、何冊も借りることによって、貴方の趣味はもちろん、思考や思想まで完全に図書館側に掌握されることだ。

私の様な爺さんなら、趣味・嗜好・思想すべてが役所またはそこが委託する民間企業や 人 に住所氏名と結び付けられて把握されても、今更という気がするが、サラリーマン現役とか他人に自分情報が掴まれるとまずい人には大いに危険なことである。

仮に、一ケ月3000円の書籍代を使っていたとするなら、その書籍代の多くを節約するか、自己情報を他人に開示するかは深く考えるべきところだろう。

自己情報とはそれぐらい、いや、それ以上にずっとずっと重要なことだ。

 

しかし、その 一ケ月3000円の書籍 を同じ店で購入して ポイント を貯めていたら自分の趣味・思想をその店で掌握されるのは同じことである。

ポイントのID取得でまさか 氏名も住所も 本物 を使っていないと思うが、もし本当の氏名住所で登録していたら他人に自己情報を 自らがお届け していることには変わりない。この場合は、お金を出して、自己情報を提供しているお人よしと言うか最悪の状況だ。

 

 

漢字はツライ part.5 戈

今、弥生時代にかかわる本を読んでいる。

遺跡から出てくる青銅器の話になる。

銅剣、銅矛、銅戈 と呼ばれるものが出てくるらしい。

この 戈 という字読めます?

ヘン(偏) だか ツクリ(旁) に使われている漢字の部品としてならわかるけれど1字では何と読むのやら知らないし、わからない。無論、意味も不明。

お高くとまっておられる「岩波」の書籍なので、弥生時代の本なのにこれが読めて当然でしょう、と ルビ は振られていない。

なので 戈 のみでもわからないし 銅戈 でも意味も読みもわからない。

ルビが振られていないぐらいだから、勿論、写真もイラストも何もない。

銅戈 とういのが1~2回出てきたぐらいなら無視したけれどもうその本では10回以上出てきたのでさすがに調べざるを得なくなりタブレットを開いてネットで調べた。

こうなると、ルビもなく、イラストもない本には 著者と出版社=岩波に悪意があるのでは?と感じてしまう。

ちなみに 戈 は、音読みでは カ で、訓読みでは イクサ、ホコ と出ている。

(この 音読み と 訓読み もどっちがどっちか こんがらがります。いっそ オン読み と オト読み にしてくれれば迷わずにわかるのに・・・でもそれを漢字で書くとどちらも 音読み となって区別がつかなくなる。漢字が内包する非論理性が出てきてしまう。)

で、 銅戈 は ドウカ と読むらしい。(どうか知らないけど、と親爺ギャグ)

ついでに、

銅剣、銅矛、銅戈、はネットの写真で見てもパッと見、違いがよくわからない。

いずれも棒の先に付ける刃物なんですけど、銅剣と銅矛は棒と同じ方向に付ける、すなわち 突いて相手をやっつける道具。銅戈は棒に直角に付けて、すなわち、振り回して相手をやっつける道具、らしい。棒への取り付け方は、銅剣と銅戈は棒に差し込んで取り付け、銅矛は棒の先端にかぶせて取り付けるらしい。

ネット上の写真を見る限りでは 銅剣、銅矛、銅戈、は同じものに見えてしまいます。

振り回す 銅戈 は、斧 や 鉞 に似ていても不思議ではないのですが、銅剣と同じ形に見えます。

エッ、 斧 や 鉞 が読めない?そうでしょうそうでしょう。 オノ や マサカリ です。

マサカリ(鉞)はね、半年ほど前に読んだ時代小説に出てきたので覚えたんです(笑)

 

漢字。 読めない、書けない、意味なんかまるで分からない、こんなものコミュニケーションツールとして全く使えない、ホント、止める方向へ行きましょう。

 

最後に、

昨年の秋に、 漢字はツライ part.3 で針葉樹の 榧 というのを書きました。

この時は意識してこの漢字の読みを書いていません。 榧 は生涯、見なくても良い漢字ですから。読めなくても良いのです。読めて書けると使いたくなってしまうでしょ?(笑)

 

 

 

 

 

 

ネットで古書を購入する

ネット(アマゾン)で 古書 を購入した。

一冊目は3~4年前に 山岳ガイド 本を買った。

昭和47年(1972年)9月 第14版 と言うことなので、とうの昔に 絶版 になっているので新しく書店での購入はあり得ない。ネットで調べると思いの外安い価格で出ていたので即ポチッとやった。

本の状態 良好 となっていたけれど、人が売り飛ばした本だし、何しろ出版も古いのでボロボロの本が来るだろうと思っていたら、ビックリするぐらい 綺麗 な本だった。

同シリーズのガイド本を私は2冊持っている。大事に見てきた本だ。そんな私の本よりズッと綺麗だったのには驚いた。

先日も2冊目をポチッとした。

こちらは比較的新しくて 平成6年(1994年)の出版だけれど、やはりもう書店では購入出来ない絶版になっている。この本は図書館で既に3回も借りた。でも見たいところは3分の1程度しかないので購入するのはもったいないと思っていたけれど、いつでも自由に見たいと思うようになって購入することにした。

比較的新しい本だけにネットには何冊か売りに出されていた。

価格は新本と同じ値段が付いていたが、どれも本の状態は 可 のレベル。

気持ち値段は上がるが一冊だけ本の状態が 良 と言うのがあったので、同じ持つのなら少しでも綺麗な本であって欲しいとポチッとした。

これも綺麗な本だった。イヤ、新本で書店に並んでいるのと変わりない。(腹帯はなかったが)

 

ネットの古書、 状態が良 は良いですね。

もっと薄汚いようなのを思っていたけれど、全然違った。

古書屋さんの 本 への思い入れというか愛情というかが伝わってくる思いがした。

 

 

 

 

嗚呼、買ってはいけないものを買ってしまった part2

買ってはいけないリスト の part2 は書籍の話し。

読みたい本はいろんなジャンルで色々ある。そんな中で世の中を素直に見る?常識通りに見る?のではなく、チョット視点を変えてみる、そうしたら、かなり世の中が違って見え霞が消えてスッキリ見晴らしよく見える、そんな本も多くあって良く読む。

だからミシェル・フーコーなども好きだった。

最近では、 ちくま文庫 の『 「日本人」という、うそ』 と言う本を買った。

読み始めると、どうも論点が身勝手というか論理がインチキぽい。

このインチキさについていけず50ページも読めずに止めてしまった。

そして、私には不都合な商品一覧をタブレットのメモ帳に書き込んでいる「買ってはいけないリスト」にこの著者、 「山岸俊男」がとうの昔に載せられていたのに気が付いた。

ついつい出版社の タイトル や 腹帯 の宣伝文句にだまされて買ってしまっていたらしい。

山岸俊男、こ奴の本は買ってはいけない。

 

佐伯啓思、これではただの愚痴じゃないか

佐伯啓思の「反・民主主義論」を読んだ。

以前から反・民主主義的なことを彼は言っていた。

だけれど、じゃあどうする、については一切書いていない。

さすがに本のタイトルが「反・民主主義論」なら、ポスト民主主義としてどうする、的なことが書かれているだろうと期待した。

だけれど、今回も何も書かれていない。

さすがに学者らしく、歴史的事実や過去の人の思想などを織り交ぜて「反・民主主義論」が書かれている。なので、痛快だ。でも基本的にはもうすでに了解済みのこと。

やっぱり、民主主義に変わる新しい制度の提案とか、同じ民主主義の中でももう少し考え方を変えてみようとかの 提言 はない。そう、今回もない。

これじゃ、ただ単に 愚痴 を聞いている、イヤ、読んでいるに過ぎない。

佐伯啓思 もここまでの男だったか。残念。

 

 

図書館の本は借りる価値がある

図書館の本は「読む価値」があるかどうかは分からない。それは、本の内容や文章の上手さ、あるいは、読者の感心や理解力などで決まってくるので何とも言えない。

けれど、本の内容にかかわらず、図書館の本は「借りる価値」はある。

人気の本は同じものが図書館で何冊も購入されている。

それでも多くの人が予約を入れているので、実際に借りられるのは半年先とかになる。

これが一般的だ。

しかし、何冊も図書館が保有しているのにすぐに借りられる本もある。

これは広告等で一気に広まって図書館で何冊も購入されたが読んでみるとスカだったという本だろう。

要するに人気が継続していない、最初の広告だけで売れた本と言うことらしい。

また別のパターンでは、人気で予約はたくさん入っているが実際に本を手にすると、途中からは新品に近く殆ど読まれていない、と言う本がある。

多くの人が期待して予約は入れてやっと自分の番に回ってきたけれど、つまらないから?文章が下手だから?難しすぎて読めないから?理由はともかく、ほぼ全員が読まなかった本と言うことらしい。

人気のない本でも同様の現象がある。よく手にされるからか表紙はそれなりに汚れているし傷んでもいる。けれど文章の所は新品の臭いが残っているかと思う程綺麗な本もある。これも、読みかけた人の殆どが途中放棄した本だろう。

 

図書館の予約状況から、手にした本の状態から、その本の「実力」がわかる。

 

書籍「資本主義の終焉と歴史の危機」

書籍「資本主義の終焉と歴史の危機」を とうとう 読んでみた。

紀伊國屋書店のダイレクトメールでこの本の紹介が10回は来た。

紀伊国屋はお奨めなのかも知れないが私はこの手の本に感心がない。

でも、あんまりしつこくダイレクトメールが来るので とうとう 読んでみた。

結果、不愉快なぐらい面白くない。

何故面白くないと決めてかかっていたか。

まず、著者は当然のごとく 経済 の専門家である。片や私は何とか日経新聞が読める程度しか経済が分からない。ということは著者の言う「資本主義」とはなんぞやと言うことは結局最後まで私には理解出来なかったので、それ(=資本主義)が 終わる と言われようが、益々絶好調と言われようが私にはイメージ出来ない。

分からないながらもこの手の話しは10年以上前に何冊か読んでいるので、理解出来る範囲では全く新鮮みがない。

新鮮み?一つあったかも。マルクス主義が見直される、みたいなことが書かれていた、点か。

そして、この手の話題は、「終焉」と説明してくれるのは良いが、じゃあ、明日から私はどうすればいいの?どう思考すればいいの?についてはヒントはおろか著者は書こうともしていない。

この「終焉」を訴える本はみんなそうだ。

絶対に、なのでどうすればよい、は書かれていない。

結局、終焉するかしないかを知っても知らなくっても、全く意味がない(変化がない。変化しようがない。)

それが分かっていたからこの本を紀伊国屋が薦めても読まなかった。

この手の本は、お金と時間の無駄なんだ。

 

 

 

海部陽介の新刊 「日本人はどこから来たのか?」 その1

海部陽介の本、「日本人はどこから来たのか?」が出版されていると新聞の広告に出ていたので早速買った。

とても楽しみなので勿体なくって一気には読めない。

私が今、こんなに縄文時代に興味を持つようになったきっかけが「人類がたどってきた道」という海部陽介の本だった。

先史時代の話しとはなんの関係もない新書版に、海部陽介の「人類がたどってきた道」は面白いよ、と書いてあって、何故か惹かれて買ってみた。

元々、弥生や縄文、ましてや旧石器時代になんの感心もなかったのに、読み始めると、ワクワク、ドキドキ、そしてハラハラ、実に面白い。およそどんな推理小説もこれにはかなわないだろうと思う程の面白さだった。

要は、海部陽介のストーリー展開と文章が上手すぎるのだ。

これをきっかけに沢山の先史時代の本を読んだ。

でも、これはすごいと思うのには残念ながらほとんど出会わなかった。

イヤ、むしろ、文学部教授ならもう少しまともな日本語文を書けよ、と言いたくなる本の方が多かった。

それだけに海部さんの本はすごいと感じる。

ただどれほど文章が下手で読みづらくても、先史時代の人類が、6万年前に6万キロの旅に出る、これほどスケールのでかいロマンスは作り得ない。

神よりも古くお釈迦様よりずっとずっと昔に、人類はその旅に出た。

本当はただただ生きるためだけの苦労の移動であったとしても、それを広大なロマンスと感じてどの学者も筆をしたためてくれている。その心は伝わってくる。

そのロマンスの語りが海部陽介はとりわけ熱く上手い。

 

さあ2冊目の本、楽しみにして読ませてもらおう。