「岳人」の廃刊は近い?

昨年(2014年)夏に、月刊誌「岳人」は実質廃刊になった。

でもモンベルが「岳人」の名を受けて発行し続けている。

(この辺の事情は、2014年4月 のブログで書いた)

 

書店で「岳人」は売られてはいるが、ほとんど手にすることもなくなった。

モンベル会報誌となった「岳人」に興味はない。

でも過去の「岳人」には関心があるので、気にはなっていた。

今日も書店を覗いてみた。

今月号が発行されてもう10日以上になるが8冊残っていた。

同じ月刊誌「山と渓谷」は2冊しか残っていない。

各号の特集内容によって売れ行きが変わるのは分かっているが、見ていると毎月「岳人」は沢山売れ残っている。

いよいよ廃刊は間近に感じる。

「岳人」発行の赤字をモンベルとしてあとどれぐらい支えるのだろうか?

モンベルの精神と”岳人”の精神は、むしろ正反対の極にあると思う。

”岳人”の精神なき「岳人」は、一日も早く完全廃刊して欲しい。

 

お断り:

”岳人”の精神にしろ”モンベルの精神”にしろ、その内容について、ましてやその善し悪しについて、私は何も言っていない。単に、私が一人勝手にイメージする双方の精神が対極にあると感じている、と言っているだけだ。

 

 

紀伊国屋の売り上げ減少つづく

紀伊国屋の売り上げ減少つづく、と言う記事が出ていた。

で、新しい事業基盤として、東南アジアとかをもっと力入れる、とか。

東南アジアの書店で、日本のコミックをもっと販売するらしい。

 

確かに、年々売上高は落ちていくだろうな、と分かる。

まず、全体的にいわれている 活字離れ は進む一方だろうし。

店の書籍の配置も年々変わっている。

以前は、もっと、いわゆるハードカバーの本、すなわち一冊の単価が高い本がもっと置かれていた。それらの書架がどんどん減って、文庫本、新書版、コミックがどんどん増えている。

価格的には半分程度かな?だから、客数は減っていなくても売上はイヤでも減っていくだろうな、と店を覗いているだけで感じる。

 

仮に紛失してもそう痛くはない本が多くなり、本を大事にする気が弱くなって、そのまま活字への思い入れが無くなっていって、次第に買わなくなっていく、的な悪いスパイラルがあるように思える。勿論そんなのはごく一部で、今の若い人は、LINEなどSNSで忙しすぎて本なんかに目を通している時間はないだろう。

でもハードカバーというか専門書的なものが売れないのは、出版社にも大いに責任あるような気がする。専門書の筆者は、専門性の知識はもちろんあるのだろう、けれど文章として読む面白みがからっけしない、そんな本が多すぎる。筆者は決して物書きの専門家ではないのだから、不細工な文章や章立て構成は出版社の編者の方で大いに口を入れるべきだと思う。そして、読んで面白い本にする義務があると思う。

ここ何年か、人類史的な本を読んでみてイヤ程それを感じる。

読書が減るのは、出版者側に大いに責任がある、と。

 

「旧石器時代の人の知恵」、日本語の本を出版して欲しい

「旧石器時代の人の知恵」安蒜政雄 新日本出版社 を読んだ。
いや、ページをめくった、が正しい表現かも。

縄文時代が1万6000~1万3000年前ぐらいから始まって3000年ぐらい前まで続いた文化で、
その後は言わずと知れた弥生文化へと移っていった。
これは日本の遺跡から見た呼び方(分け方)であって、世界的には、旧石器時代・中石器時代・新石器時代という分け方の中石器時代・新石器時代にまま該当する。
と言うことで中石器・新石器時代より古い旧石器時代とは、縄文時代以前と言うことになる。
その旧石器時代の日本でのお話しが書かれている。
もう少し数字的に書くと、3万5000年前より新しい日本の石器遺跡を解読したお話しだ。
非常に興味深い。が、この著者の安蒜政雄という先生は本当に”文学部”教授なの?と思ってしまうほど文章が下手だ。
執筆作業をしていてこれほど下手なのも珍しいと思う。
文章が間違っているのでは決してない、ただただ読みづらい。
句読点がやたらと多い。(これは私も同じ傾向にあるので注意したい。反面教師だ。)
石器など日常では使うことがないが、礫器、礫核石器、剥片石器、等々の漢字からモノのイメージできない単語が並び、ただでさえ頭に入りにくいのに文章の書き方がさらに理解を遠ざけるひどいものになっている。
例えば、3つの文章にすれば、分かりやすく読み手に印象が与えられるのを作者の頭の中で気持ちが焦って1文にしてしまって実に理解しづらい。
AはXです。BもXです。そうAもBも共にXなのです。とすれば素直に読めるのに、この筆者は決まって、Aは、Bは、そうXなのです。と書く。
「Aは、」とくれば、読者は何なの?と期待するが、そんな答えなど用意されず、全く違う事情の「Bは、」と続けられてAのことが頭から薄れたところで実は共にXなのです、とやられても「えーっと、Aって何だったっけ?」と元に戻って読み直さなければならない。
実に読みにくい。
残念だ。
とっても面白い内容なので、どなたかこの本を「日本語」で出版して下さらんか。

そうだ、この時代の石器作りの名人2名にイチとハナの名を命名した 新日本出版社 森幸子さん、貴女が日本訳を出して下さらんか。
元々、章立ての順番が滅茶苦茶だったのを入れ替えさせたのは貴女でしょ。

カオとツラ

顔を カオ と ツラ とどちらを言われても通じる。

ただ、使い方として ツラ は下品というかヤクザっぽいと言う印象がある。

「ちょっとツラ貸したれや」的な使い方、ちょうど、 僕 と 俺 の様な感じ、これが私の カオ と ツラ のイメージになる。

ところが ツラ は方言で、東北や九州中南部から沖縄で使われているらしい。

(沖縄では チラ らしい。そして ツラ より古い言葉らしい)

カオ は近畿、中四国で使われていて、関東圏にも伝搬している様な説明がなされている。

どいうことか。

もともとは ツラ で日本中全国で使われていた、そう、それが縄文時代。

ところが弥生文化では カオ が使われ、北九州から近畿にその弥生文化が伝わるに従って ツラ ではなくなっていった。当初、その弥生文化に染まらなかった東北や九州南部では 縄文語 の ツラ のまま残った、と目も覚めるような鮮やかな説明が

書籍:縄文語の発見  小泉保   青戸社

に出ていた。

とてつもなく面白い本だった。

まあ、縄文語がどの様な言語で弥生語がどの様な言語か一切触れられていないので不服感は大きいし、分析哲学というような分析○○という私には非常に退屈な手法と思うのだが、比較言語学での列挙は興味ないので読み飛ばしたが、最後の結論、

・弥生時代に弥生語なるものがすべての縄文諸語を一掃しこれと入れ替わったと憶測する必要はない。

・弥生語も縄文語の一変種にすぎない。

・要するに、日本語は縄文文化と共に始まったと考えてよい

には、大いに賛同する。

 

この本、図書館で借りてきた。

定価 2600円 + 消費税 は払わなくても済むし、読み終わったあと書架のスペースも要らない。

本当に図書館は有り難い。

次ぎまた借りたい本は何冊かリストアップしてスマホに入力されている。

ちょうど区切りが良いので、来年一年間で何冊借りるか数えてみよう。

 

花言葉

花言葉、といっても例えば、バラがどの様な花言葉なのかを書こうとしている訳ではない。

全く違う。

今日、本を読んでいたら「花言葉 The language of flowers」と書かれていて驚いた。

language なんてものすごく硬い表現に聞こえるのでまさかこう言う使い方とは夢にも思っていなかった。

むしろ、 The meaning of flowers とか The words of flowers とかかと思っていた。

もしかして、花があって、それに意味を付けたのではなく、意味があって、それを表すモノとして色々な花を名付けたのだろうか?

 

また目的の本がない

今日、紀伊国屋へ行った。

前回と同様、日経新聞の書評欄で5つ星マークの本が面白そうだったので早速読んでみようと少し早い目に出かけた。

残念ながらまた欲しい本は入荷していないようだった。

一月ほどの間に、欲しい本がないのがこれで2回目。どうも紀伊国屋は販売時期が1ヶ月以上遅れているのでは?と言う気がしてきた。

新聞の広告欄ではなく、書評欄に出ている本なのだからさすがに取り寄せておいて欲しいと思うのだが・・・

それとも、無ければ他の本を買うだろうと、別の本を買わせる作戦なのだろうか?

その手には、俺はのらん!!といっても今日ばかりは元々別の2冊目も購入予定だったのでそれを買ってきたが・・・

 

目的の本がない

紀伊国屋のポイントカードが欲しくって横浜そごう店へ出かけた。

で、ポイントカードをもらうために本を買おうと、購入予定の新書版コーナーへ直行したら、んんん?いくら探してもない。もう一月以上も前に販売され、先日は新聞の書評コーナーでも取り上げられていたのに・・・・残念。

結局、求める本は読みたかったので有隣堂で買ったので紀伊国屋のポイントカードは手に入らなかった。

よーく考えてみたら横浜そごうの紀伊国屋の新書版コーナーはかなり狭い。

ユーザー層が違うらしい。それにしても午後半日損した気分だ。

次からは、桜木町の紀伊国屋へ向かうようにしよう。